1. 前身は函館の海産物問屋、「森卯商店」
 ニユートーキヨーの前身は函館でも有数の海産物問屋、森卯商店です。森卯商店は明治初期に創業し、大正後期には、日魯漁業のエージェントとして大量に買いつけをし、取引先は全国数百店にも及びました。
「森卯」の名は全国的に知られる存在でした。
 店は、塩鮭、新巻鮭、筋子、イクラなどを取り扱う塩魚部と、スルメ、ミガキ鰊、開鱈、貝柱、昆布、小豆のほか、数の子などを扱う干魚部。大豆、小豆のほか、肥料などを扱う雑殻部からなり、当時、百軒近くがしのぎを削っていた函館の海産物問屋の中でも、一、二の大商いでした。
※昭和12年の本店開店当時、ビールのつまみに「干鱈」がサービスされました。これは、海産物問屋ならではのアイデアで、大好評だったことはいまも語られている逸話の一つです。


 2. 森卯商店の東京進出は関東大震災がきっかけ
 大正12年9月1日、関東大震災で東京、横浜は壊滅状態になり、日本国中が大騒ぎになりました。緊急物資が必要となり、北海道庁の要請で森卯商店も海産物を大量に船積みして、いち早く東京へ送り込みました。この行動が当局から感謝されたことは、いうまでもありません。
 このとき、森卯商店の番頭が一人、荷さばきのため上京しましたが、このことが東京進出の端緒といわれています。翌年、大正13年9月20日、日本橋魚市場の一画、魚問屋が集まる代表的な商業地、日本橋本船町(ほんふねちょう・現在の日本橋室町1丁目、日本橋本町1丁目)に、「函館森卯商店東京出張所」の看板を掲げました。
※東京進出の迅速な展開は、震災に関係なく、すでに森卯兵衛店主には東京進出の計画があったようでもあり、震災は要因の一つにすぎなかったのかもしれません。


 3. 日魯漁業の売店を引き受け新宿ヱビスビヤホールを開店
 東京に進出した森卯商店は、大正15年9月1日、新宿(現在三越のあるところ)にテント張りながら、日魯漁業製品の販売を中心にした食料品の仮設店を開き、翌昭和2年(大正15年12月25日、大正天皇崩御。昭和元年は12月26日〜31日)には、新宿駅に日魯製品のほか、加工品も販売する食料品店を開店しました。昭和3年、日魯漁業がその店舗を3階建てに新築し、直営売店、食堂にしたものの、昭和4年、再び引き受けることになりました。
 そして、昭和8年4月9日、大日本麦酒の支援を得て、新宿ヱビスビヤホールを開店。1階から3階までビヤホールで、ワンフロア約50坪。3階へお客さまを上げることには一抹の不安がともなったようです。しかし、開店当日は大盛況で、1500リッターの生ビールを売ったといいます。不安は杞憂に終わり、売上げはその後も順調。心配はビールのオフシーズン、冬場対策に向けられていました。
※函館の森卯商店は、昭和の初年に行われた北洋漁業の大合同に伴う問屋側の統合などから、このときすでに、東京に主力を移していました。


 4 .日本酒を扱い、暖房してビールを提供する新商法
 昭和10年頃、ビヤホールは麦酒会社の直営を含めても、東京市内に10店舗もなく、また、夏場だけ生ビールを販売する店は、数多くあったものの、年間を通じて取り扱う店は少ない時代でした。
それだけに、非直営ビヤホールならではの工夫や、ビールのオフシーズン対策は必至でした。
当時としては型破りな着想。直営ビヤホールが扱えない日本酒を提供したり、石炭ストーブを据えて赤々と燃やし、暖房して生ビールを提供することなどが的中しました。直営ビヤホールができないことや、函館の経験を生かしたサービス、営業方式が売上げを順調に伸ばしたのです。

 5 .渋谷ヱビス生ビヤホールは新企業に向けた第一歩
 新宿のビヤホールの好調に自信を得て、昭和10年6月1日、渋谷駅前(現在の西武百貨店の斜め前辺り)に、2軒目のビヤホールを開店しました。この店は新宿と違い、最初からビヤホールを目的に誕生させた店で、約75坪の敷地に一部3階建て、延160坪。建築費は坪110円。当時は坪50円もあれば足りたといいますから、その豪華さがうかがえます。
開店当日は天候にも恵まれ、1700リッターを完売。その後も大繁盛で、森卯商店の一部が、ビヤホールという新企業へ本格始動することを意味するものとなりました。
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 6 渋谷ヱビス"生"ビヤホールになった理由
6月1日の開店を予定し、店名も渋谷ヱビスビヤホールですべての事が運んでいたとき、ある飲食店が渋谷ヱビスビヤホールの商号登録をするらしい、という情報が突然飛び込みました。担当者は登記所へ駆けつけたものの、ときすでに遅し。結局、監督判事の計らいで、「渋谷ヱビス生ビヤホール」と登記することに…。
 準備を進めていたネオン看板から、ポスター、チラシなどの印刷物まで、全て変更する事になりました。正面入口と袖、屋上のネオン看板は、"渋谷ヱビス"と"ビヤホール"を「赤」、中央の"生"の字を「黄色」にして渋谷ヱビスビヤホールと読ませる苦肉の策。ところが、かえって"生"を強調することになり、好結果を生んだとも伝わっています。

 7 ビール好きの親睦会 ヱビス会誕生
 渋谷ヱビスビヤホールも、新宿同様、開店からビール好きが集まって大盛況。そのうち、月1回、ファンが結集するヱビス会が誕生しました。会費は1円で、飲み放題、食べ放題。会員は150名ほどにふくれあがり、4分の1は円山のキレイドコロ(芸者さん)が占めて、なかなか華やかだったようです。
 さらに、この会は、3ヶ月に1回はビール工場の見学を名目に、会場を大日本麦酒の目黒工場に移し、出来立ての生ビールを満喫していたそうです。

 8 数寄屋橋畔への出店計画は首脳部の先見の明
 森新太郎元社長は、昭和6年、京大卒業後、亡父の後を継いで家業に就き、森卯商店に働く人々と一緒になって新しい道を探し求めていました。
 ニユー・トーキヨー発足の地歩は、新宿、渋谷の店舗に築かれましたが、今日の素地は有楽町(数寄屋橋)に進出したことにあり、その出店計画は、慎重な調査、分析をし、将来性を確信して実行に移されました。
 銀座通りには4軒のビヤホールがあり、どこも繁盛していましたが、日比谷から築地に通じる「横の銀座」にはビヤホールはありませんでした。また、候補地には有楽タクシーのガレージと木造の東京商工興信所の事務所があり、両方合わせて、敷地は約115坪強。入手に関しては、坪当たり1050円で、総額12万円。相当な金額を要しました。(当時、公務員の初任給75円、銀行員70円)。

 9 都心に独立ビルの一大ビヤホール計画
 土地の購入から建設決定まで紆余曲折はあったものの、新宿、渋谷同様、大日本麦酒の積極的な支援を得て、計画は着々と進行。地下1階にドイツ風ビヤホール、地上1、2階は大ビヤホール、3階はお座敷スキヤキ、4階は喫茶、5階は事務所で、一部ビヤテラスと決定しました。そして、開店日を昭和12年6月9日の大安日と決めてスタートしたのが、昭和11年8月のことでした。

 10 店名はヱビス会館から「ニユー東京」へ変更
 支援をお願いする大日本麦酒へ提出した事業目論見書には、売上高、諸経費などが詳細に書き込まれ、店名はヱビス会館と記されました。ところが、大日本麦酒の柴田清東京支店長(のち日本麦酒社長)は仮りとはいえ、店内がビール会社の直営のように誤解されかねないうえ、少々古臭いのではと、しばらく考えたすえ、「ニユー東京」の名を。
 覚えやすいうえ、全国各地で通用する、清新な響きを備えた名称に、その場で決まったのです。

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11 ニユー東京から「ニユー・トーキヨー」へ
 ニユー東京の工事を請け負ってくれることになったのは、大倉組(現在の大成建設)で、設計責任者は新進気鋭の大熊喜英さん。その大熊さんの発案で、ニユー東京は片仮名の「ニユー・トーキヨー」となり、現在に至っています。昨今と違い、片仮名流行でない頃だっただけに、ハイカラに映ったものと思われます。その字体も、ロゴマークも、大熊さんのデザインによるものです。
12 工事中の板囲いに「?」のマークを表示した
 当時の数寄屋橋周辺、有楽町は丸の内のビジネス街を控えた一大娯楽街で、朝日、毎日の新聞社、日劇、有楽座、邦楽座などがありました。その一画で大がかりな工事が始まり、と同時に板囲いが施されました。そして、その板囲いには「?」マークが一つ、大きく描かれ、開店までその囲いは外されなかったため、いったい何ができるのかなと、道行く人々の注目を集め、かなり話題を呼んだといいます。これは森元社長のアイデアで、斬新さが開店前の雰囲気を大いに盛り上げたのでした。

13 数寄屋橋畔に白亜のビール殿堂誕生
 昭和12年6月9日、地下1階、地上5階、延約500坪のビヤホールビルは開店しました。
 開店時刻前からお客さまが押し寄せ、数寄屋橋の橋上からマツダビル(現在の東芝ビル)のほうまで延々長蛇の列。開店と同時に、客止め、また客止めの大混雑で、町内の「かしら」連中、店員、手伝いの人が、店頭に丸太の杭を打ち立ててロープを張りめぐらし、メガホンを手に汗だくで、声をからして整理に当たったといいます。
 従来のビール専門に加え、洋酒や日本酒をおき、洋食を食べて、スキヤキで宴会を開くこともできる、軽食を兼ねた独立ビルの出現は、開店早々、絶賛を博しました。
 インテリ通勤層やサラリーマンを対象にした、ニユー・トーキヨーの独特な営業方式は、この頃具体的に現れ始めたのでした。
※昭和12年10月1日、合名会社ニユー・トーキヨーを設立し、ビヤホール経営を専業としました。

14 生ビールを中心にした全館飲食店の新形態
 本店ビル内は、1階が大ビヤホール、2階は和食堂、3階はすきやき、4階は喫茶とビヤテラス、5階は事務所。そして地下1階はドイツ風ビヤホールでした。どのフロアでも生ビールを提供する、生ビール中心の全館飲食店という形態は、日本で最初だったといわれます。
 当時、現在の高速道路の下は河で、1階から釣り糸をたれるとハゼが釣れたといいます。常連は、萩原朔太郎、高見順、河上徹太郎、石黒敬七、山本嘉次郎。それに、朝日、毎日、読売の記者たちがいました。(敬称略)

15 シュタイン、ザイデルで飲む生ビールがめずらしかった
 地階はドイツ風ビヤホール「ジャーマン・ルーム」。奥行きのあるバースタンド、洋酒とフタ付陶器製ジョッキ(シュタイン)で飲む生ビールが異彩を放ちました。また、専用シュタインを預かる会員制システムが、500人ほどのメンバーで発足しました。
 1階はいわゆる大ビヤホール。河に面していたので、河畔いっぱいにテラスをとった、ゆったり明るいビヤホールで、生ビールをガラス製のフタ付ジョッキ(ザイデル)で提供しました。
 開店と同時にビールシーズンに向かったこともあり、延べ300坪の客席は、連日大盛況。多いときには1日5000リッターの生ビールを売りました。これは目を見張る回転率です。

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16.シュタインでのむドイツ風ビヤホールは大盛況
 地階のジャーマン・ルームは、その名の通りドイツのビヤホールをそっくりもってきたような雰囲気でした。インテリ層に大好評だったようで、多くのシュタインファンを生みました。
 常連の一人、NHKラジオ「とんち教室」の人気者・石黒敬七さんは著書「ビール物語」に、「戦前のニユー・トーキヨーで、飲まない間は炭酸ガスを蒸発しないようにフタをするのが本当のビールの飲み方である、ということで得意になってフタ付ジョッキを用いた」、と記しています。


17 ジャーマン・ルームの干鱈のつまみが大ヒット
 地階のドイツ風ビヤホールでは生ビール1杯ごとに干鱈のつまみがサービスされました。そのつまみは、クナシリ、エトロフ付近でとれた最高級の真鱈を使ったオリジナル商品。真鱈の皮をむき、炭火で焼いてから独特の味付けをしたもので、生ビールとの相性は抜群でした。世評に上り、他の店からの要望が高まって全店で提供するようになりましたが、製造側は大あわて。それまで2人で製造していたところを13人に増やして対応したといいます。


18 開店記念の小寺健吉画伯の絵皿プレゼントも大成功
 開店を記念して5日間、来店のお客様に小寺健吉画伯の絵皿をもれなく差し上げました。思わぬプレゼントにお客様は大喜びし、開店景気がいちだんと盛り上がりました。
 小寺画伯は明治20年生まれで画業は長きに渡り、90歳の長寿を全うされています。戦前2度の渡仏経験をもち、初期には風景のなかに裸婦や人物を配した牧歌的な作風を示し、後期印象派の影響が見られたといいます。
 絵皿プレゼントのアイデアは森新太郎元社長(当時営業部長)によるもので、絵皿のセンスのよさも光り大好評。その後も、接収解除後の本店再開時や名古屋ミユンヘン開店時、ビール祭などに絵皿プレゼントが行われました。

19 出征者の壮行・送別会にも大いに利用された
 本店開店後間もなく、虚溝橋で日中両軍が衝突し、戦争に拡大して戦時色が濃くなり、ビジネス街に働く人々の応召者が相つぎました。その壮行・送別の会があちらこちらで開かれるようになり、開店早々の本店には、他店では狭くてとか、用意が整わないという大がかりな会の話が続々と持ち込まれました。盛大な会の来会者、来場者に大きくアピールしました。

20 ワンランク上の「銀座ミユンヘン」を開店
 本店の好業績を追い風にして、その年の12月、銀座の真ん中、尾張町交差点に近い銀座5丁目にあった喫茶店ラスキン(御木本真珠王の御曹司経営)を買収し、「銀座ミユンヘン」を開店しました。
 「ミユンヘン」という別名をつけ、「ニユー・トーキヨー」の大衆版に対する、新しいニユー・トーキヨーの営業方針を象徴した店で、森新太郎元社長を中心に、森卯一郎元会長が協力してくれて企画された店です。ミユンヘンといえば、ドイツの古都で、世界的に知られるビール醸造地。ビヤホール「ホーフ・ブロイ」も有名で、いわずと知れたビール党のメッカ。夢はそのあたりにあったのかも…。

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21 「銀座ミユンヘン」で新しいスタイルを作った
 銀座ミユンヘンは、1階にコの字型の大きなスタンド、その2階部分が吹き抜けていて、メンバーのネーム入りシュタインが、カウンターの飾り棚にきれいに並び、あかぬけした新しいスタイルのビヤホールでした。
 こうした雰囲気が、生ビール1杯50銭と割高ながらも、銀座人のセンスと合致。従来のビヤホールの客層よりもワンランク上の、学者や芸能人、マスコミ関係の文化人の溜まり場的存在となり、ビールのオフシーズンに開店したにもかかわらず、250席の店内は連日超満員。生ビールを年間約35万リッター売ったといいますから、数寄屋橋本店に劣らぬ大盛況でした。

22 昭和15年、全国一のビヤホールチェーンに
 戦時下、昭和13年に入っても、「ニユー・トーキヨー」は業績を順調にのばして、浅草雷門、丸ビル、神戸三の宮。翌14年には、京都四条河原町、浅草六区映画街の裏側の浅草池の端、名古屋栄町。そして、15年には東京蒲田など、出店をつづけた結果、直営店舗は13店になり、全国一のビヤホールチェーンになっていました。
 ビール党が年々増加するなか、昭和15年9月、ビールの泡はビールであるか、ないかが争点になった、めずらしい争いが起こりました。
 当時、東京市内にはビヤホールを名乗る店が2000軒あったとされ、ビールの管理、注ぎ方に問題のある店もあったようです。泡の多いビールが横行し、不当利益をおさえる目的で、取り締まり当局は「泡はビールの実体ではない」とし、一方ビヤホール側は「泡のないビールはビールじゃない」と真向から対立。
 結局、当時、東大教授で日本醸造学界の第一人者・坂口謹一郎博士の「泡ぶたは最小15%より20ないし30%を適正とする」との鑑定で一件落着しました。

23 本店は強制的に河北電電に借り上げられる
 昭和16年12月8日、日本は米英に宣戦を布告して、太平洋戦争が始まりました。日本国中が戦争ムード一色。あらゆる物資が窮屈になり、国民は耐乏生活に追い込まれました。と同時に、主要駅周辺の店舗や家屋などは強制疎開にあい、新宿や渋谷のビヤホールは店舗を壊して空き地にさせられ、昭和18年、「ニユー・トーキヨー」は数寄屋橋本店と銀座ミユンヘンにつづき、各店を閉鎖しました。
 本店は国策会社の河北電電に強制的に借り上げられ、終戦まで戻りませんでした。

24 ビール空白時代を耐えぬく
 「ニユー・トーキヨー」の戦後再開第1号店は、戦災をまぬがれた東京・内幸町の幸ビル店。昭和21年4月25日でしたが、5月にはGHQの料飲食禁止令によりビヤホールの営業ができなくなりました。7月4日、本店と渋谷店が進駐軍専用のビヤホールとして開かれたものの、一般業務用のビールは配給されませんでした。昭和24年5月6日、酒類が自由販売となり飲食営業臨時規制法が公布され、6月1日から各地でビヤホールと料飲店が営業を開始しました。

25 ビヤホール再開に社員一同活気づく
 料飲が再開されて、渋谷、幸ビル、浅草雷門、丸ビルビヤスタンド及びビヤガーデンの各店につづき、銀座ミユンヘン、丸ビルのヴァオラ(喫茶のみ)、名古屋、京都、神戸の各店が再開。
 社員一同水をえた魚のように活気づきました。
 しかし、生ビール配給量の規制、戦後のインフレと大幅な酒税引き上げに、料飲税まで加算されて、ジョッキ1杯150円に。戦前のように学生から一般サラリーマンあで、気軽に利用してもらえず喜びも半分でした。

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26 苦戦を切りぬけビヤホールの使命を再考
 当時、森新太郎元社長は、吉田首相の令息・吉田健一さんの「父に望む」を名言とし、将来への期待をこめた展望を記しています。
 「自分には、政治のことはわからないが、学校を卒業した当時、数寄屋橋の<ニユー・トーキヨー>へよく行ったものだ。一日の仕事を了えて、あそこで飲むのは愉しみであった。それはぜいたくでも何でもない。健康的な慰安であった。せめて、ビヤホールで飲むことぐらい、ぜいたくのうちに入らぬ様な政治に早くしてもらいたいものだ…」
 ビヤホールの使命はこの一言につきるとし、老若男女が広大なビヤホールに集い、健康的な生ビールをたのしみつつ1日の苦労を忘れ、音楽に和し、互いに相擁して国民歌を歌う様に早くなりたい。そう思うとニユー・トーキヨーの使命は、重大なことになる、と。

27 「居酒屋」1号店を名古屋に開店
 昭和26年10月、名古屋の証券取引所の地階に、日本酒を主体に生ビールも売る大衆居酒屋、「居酒屋」を開店。その際、金魚が泳ぐという怪しげな日本酒が出回っている時期だっただけに、正真正銘の日本酒であることを訴求する販売方法の考案が急務でした。
考え出された方式は、蔵元の商標と特級・1級を区別する証紙、王冠をつけた1合びんを、そのままお燗して出すこと。これが支持され、大評判になりました。その影に、お湯につけずに燗をつける"お燗器"の独自開発という、地道な研究、努力があったのです。

28 数寄屋橋本店の新築は戦後の集大成
 「ニユー・トーキヨー」は、占領中の昭和24年10月5日、戦後最高をうたった新橋ニユー・トーキヨー、27年11月24日には、大阪第一生命ビルに戦後新設の最大級のビヤレストランを開店し、翌年夏に同ビル屋上に、戦後初の屋上ビヤガーデンを開きました。28年7月1日、東京駅八重洲口に駅ビル第1号店を誕生させました。
 そして、昭和32年10月9日、自社使用フロア以外はテナントに貸すという方式で、地上9階、地下1階建て、総延数3500坪の、数寄屋橋本店を新築しました。

29 お客様の心理を察する工夫を常に考えていた
 新ビルは地下1階と3〜5階を映画館にして東宝に、6階は日本金属工業、7階は歯科と神経科、8階はチャイナタウン(キャバレー)に貸し、残りを自社で使用しました。
 自社使用は、地下1階の一部を喫茶店ヴォアラ、1階を大ビヤホール、2階を居酒屋、9階を中国料理、屋上をビヤガーデンとして展開。1階のビヤホールの入口は両開きの扉で、白ワイシャツに黒の蝶ネクタイ、白のコートに黒ズボンスタイルのドアボーイが、お客さまの出入りに合わせて開閉していました。男性用トイレには、"バッサン"という嘔吐専用のシンクを設置したり、ビヤガーデンに滝を作って涼感を演出するなど、お客さま(大衆)心理を念頭においた試み。芸大教授の山本豊市画伯の外壁画、大熊喜英氏の室内デザインも注目を集めました。

30 運転手付きの車より保養所を建てよう
 昭和28年9月、最初の厚生施設が熱海に開設されました。この建設は森新太郎元社長の社員を慮る気持ちのあらわれの一つです。久しぶりにバッタリ会った親しい友人から、キミもそろそろ運転手付きの車で通ったら、といわれたそうです。ところが、そんなことをするくらいなら、社員のための保養所を作るよ―――そう答えたといいます。もともと保養所開設は心にあったのでしょうが、友人の一言が、気持ちを早めることになったのかもしれません。

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31 ビール祭で初めて、全店のお客様に絵皿プレゼント
 昭和35年から49年まで、毎年、ニユー・トーキヨー全店で"ビール祭"が始まり、絵皿がプレゼントされました。ビール祭は5日間行われ、絵皿の絵柄は毎日違うものを用意し、来店1回に1枚ずつプレゼント。1日10万枚、合計50万枚の絵皿が贈られました。
 それまで、小寺健吉さん、武者小路実篤さん、山下清さんの絵皿が、それぞれの目的で作られていました。しかし、全店のお客さまに差し上げるのはこれが初めて。にわか蒐集家も誕生するほどの、盛り上がりをみせました。

32 総合レストラン・チェーンの基礎を各地で作る
 絵皿のプレゼントは、原画を、いずれも高名な方々にお願いし、各先生方のご好意によって実現した企画でした。
 昭和35年の棟方志巧から、鈴木信太郎(36年)、宮本三郎(37年)、小磯良平(39年)、伊藤深水(40年)、芹沢_介(41年)、梅原龍三郎(42年)、5大画伯特選〔鈴木・田村・杉本・宮本・小磯〕(43年)、上村松篁(44年)、田村孝之介(45年)、加山又造(46年)、小倉遊亀(47年)、堅山南風(48年)、芹沢_介(49年)。〔敬称略〕 毎年、ビール祭はどの店も絵皿欲しさのファンで、ランチタイムから閉店まで大盛況でしたが、絵皿プレゼントは15年間で区切りをつけました。

33 総合レストラン・チェーンの基礎を各地で作る
 昭和40年6月21日、大正7年に建てられたサッポロビールの赤レンガのビール倉庫を改造した、高い天井、太い梁や手すりも見事な「新橋ミユンヘン」を開店。翌41年6月1日、サッポロにビール工場と直結した「サッポロビール園」を開店。さらに42年11月23日、東京・新宿の小田急本館の13、14階に展望食堂街を開店しました。回転ステージのある、ショー・レストラン「ばるーん」、数奇屋風の和食堂など、おしゃれで豪華な雰囲気は、各方面の注目を集めました。
 戦前のビールを目的にお客さまがやってきた時代から、戦後は食べながら飲む時代になり、この時期、ニユー・トーキヨーは総合レストラン・チェーンへの礎を築くとともに、発展をめざしました。

34 本格的卓上ビヤ樽セットを開発して小樽ブームを生む
 昭和40年代初頭、卓上で、小樽の蛇口から直接生ビールを注ぐスタイルが出始め、人気を集めていました。みずからビールを注ぎながら楽しむという、新しいスタイルが受けたのでしょう。しかし、炭酸ガスも圧搾空気も使わず、きわめて幼稚なものでしたから、生ビールにこだわるわが社としては好ましくない現象でした。そこで開発したのが、生ビール4リットル入り、炭酸ガスや圧搾空気を入れるタンクを内蔵した小樽セットです。タンクの気圧3気圧という本格的な卓上小樽で、全店とはいかなかったものの、各地のビヤガーデンと一部の店でブームを呼び起こしたことがありました。

35 音楽の生演奏がビヤホールの雰囲気を盛り上げた
 数寄屋橋本店、名古屋・新橋・池袋の各ミユンヘンなどでは、その時々にハーモニカバンドやハワイアンバンド、アコーディオンの名手による生演奏が毎夜行われ、高級感のある歌と音楽のビヤホール。。。。そんな異名をとるほどのにぎわいをみせました。
 新橋ミユンヘンでは、服部良一さんの指揮で「青い山脈」を合唱する、ぜいたくなひとときを過ごしたこともあったといいます。

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36 ピンキラ揺籃の店 小田急本館 ショーレストラン
 「恋の季節」を大ヒットさせたピンキーとキラーズや沢田研二が在籍していたグループサウンズ「タイガース」や萩原健一の「テンプターズ」、ダニー飯田とパラダイスキング等々メジャーな歌手やバンドが次々とニユー・トーキヨー小田急本店から巣立っていきました。
 昭和43年オープンした洋食レストランでショーを展開していた頃、無名だった彼らがよく歌い演奏していたのです。ニユー・トーキヨーから生まれた大スターたちといえるでしょう。

37 新人に若葉マークを付けお客さまに知らせる
 30年ほど前、ブロンド柏店で新人社員に若葉マーク着用を義務付けるという画期的な試みを始めました。このバッジは、自転車用の小さな若葉マークをバッジに作り変えたもの。お客さまが新人であると認知されることによって、お客さまが新人を育てていくという実践訓練がなされたのです。その効果の高さから、この方法は今でも続けられています。※このバッジがお客さまに大変好評を得、ぜひ譲って欲しいという方が多かったとのことです。

38 OES導入でサービスの向上を目指す
 今では、OESを採用しているお店は珍しくありませんが、20年前はまだまだ開発段階途中。ニユー・トーキヨーでは、1987年3月3日、ファミリーレストラン蒲田東急プラザ店オープンと同時に、時代に先駆けOESを取り入れました。それまでは、客席と調理場との往復で時間がかかっていましたが、OESの導入で手間を省くとともに、お客さまをお待たせしないサービスをご提供することができるようになりました。

39 創業32年目、昭和43年に晴れて総店舗数50店達成!
昭和43年10月15日、ニユー・トーキヨー全国50店舗目となる東京・神田駅東口店がオープンしました。昭和12年の本店オープン以来、戦争を挟んで32年目にして達成した50店目の記念すべきお店となりました。この当時、50店の店舗を構えるのは、大変なことだったのです。オフィス街でもある国鉄(現JR)神田駅には、その後も出店が続きました。仕事帰りのサラリーマンの憩いの場所として、今もずっと賑わい続けています。

40 他企業との初の合弁会社誕生!
 ニユー・トーキヨー、サッポロビール、サッポロライオン(当時はサッポロ共栄(株))3社が出資して、(株)サッポロビール園が誕生しました。昭和41年6月1日の設立で、これが他企業と提携した最初の合弁会社です。サッポロビール園は、今や年間100万人もの来客で賑わい、最盛期には1時間半もお客さまをお待たせしなければならないほどの繁盛ぶり。札幌の観光コースにも入っていて、客席4200席をもつまさに、ビールの一大テーマパーク的な存在になっています。

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41 中国地方初出店
 中国地方出店1号店は、広島・中国新聞社ビル内に昭和44年11月にオープンしました。サラリーマン層が期待できる都市化が進んだ地域へ出店を進めていく中で、広島出店は、中国地方の要衝の地としての意味を持っていました。
 広島市内で一番の繁華街の入口という好条件のもとで、地方の方々にはもちろん、ビジネスマンや観光客にも親しまれました。

42 出店が相次ぎ、外食産業売上高ランキング2位
 中国地方に初出店したことを足がかりに、昭和49年8月24日岡山駅地下街店オープン。昭和49年11月29日名古屋駅ビル店オープン。昭和50年5月10日神戸サンプラザビヤガーデンオープン、と地方の出店が続きます。
 この頃、外食産業の売上高ランキングは、昭和49年、トップの日本食堂に次いで、ニユー・トーキヨーは第2位!3位は養老の滝。ここからも、当社の繁栄ぶりがうかがえます。

43 セントラル・キッチン方式導入で売上増!
 何事にも挑戦を続けるニユー・トーキヨーでは、新システム導入にも意欲的に取り組んでいます。昭和44年、委託先から半加工済みの食材(チルド商品)が届けられるセントラル・キッチン方式を導入。キャベツの千切りなども委託先が行ってくれるようになりました。手始めに「庄屋新田町店」と「日比谷国際ビル庄屋店」に取り入れ、今では多数の店舗でこの方式を使い、エネルギーコスト削減や労働時間の短縮化に成功しました。

44 ショーレストランと日本レストランで海外初出店
 ニユー・トーキヨーの地方進出を果たす一方で、海外出店にも挑戦。昭和48年2月1日、ニユー・トーキヨーハワイ社が設立され、翌年の昭和49年10月19日(1974年)には海外1号店としてハワイ店、ショーレストランの「フラハット」及び、日本レストランがオープン。観光客で賑わうホノルルワイキキビーチの一角、ビーチウオーク通りに面した1000坪の敷地に360坪の建物を新築。連日、ディナーショー見学を楽しむお客さまや日本の味が恋しくなったお客さまに愛されました。

45 沖縄返還の翌年には那覇市に沖縄1号店を出店
 時代の先を鋭く読むニユー・トーキヨーは、昭和47年沖縄が返還されると、この地が観光の要所となることを直感。返還の翌年、昭和48年8月1日、那覇市にビヤガーデン「ニユー・トーキヨー」をオープンさせました。ここでは、「ビールの王様コンテスト」など各種イベントを積極的に行い、観光客はもちろん、地元の方々に親しまれました。これを機に、イタリアンレストラン「ポポロ」、パブ「ブリアン」と出店が相次ぎます。元世界チャンピオン具志堅用高氏を始めとする著名人・有名人に愛された店でした。

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46 創業40周年と同時に100店舗達成
 昭和52年、ニユー・トーキヨーはめでたく創業40周年を迎えました。そしてこの年、新たに5店舗を出店し、総店舗数は100店舗!記念すべき第100号店は、同年10月7日にオープンした千葉県・船橋東武店です。40年の間には、創業直後の大発展があり、戦中戦後の飲食業暗黒時代を乗り越え、時代の話題を作りあげ、ビヤホールから総合飲食業への脱皮を経て…様々な歴史を刻んできました。しかし、ニユー・トーキヨー発展の歴史はまだまだ続きます。

47 店頭でピザのテイクアウトサービスを開始
 昭和53年3月、仙台駅店がオープンし、東北地方にも進出を果たしました。洋食レストランの仙台店では、ピザキッチンが外から見える造りになっていました。これを生かす手だてはないかと考えた末、ピザの店頭販売に着手。以前から、店頭でのピザのテイクアウトはされていましたが、ご注文をいただいてから15分ほど待っていただかなければなりませんでした。店頭にヒーター付きのウォーマーを設置し、お持ち帰り用の袋と箱を用意。店頭サービスを始めたのです。これが爆発的に受け、売上の2割を占めるほどでした。また、ピザは、円形という常識をくつがえして、四角のピザを作って、東北のお客さまをびっくりさせました。

48 成田空港オープンと同時に成田店オープン
 空の玄関、成田空港。昭和53年4月の空港オープンと同時にニユー・トーキヨーの成田店もオープンしました。成田店の「桃杏花」は、中国料理を扱う店ですが、日本の味を大切にした中国料理です。世界へ飛び立つお客さまが利用し、世界各国からお帰りになったお客さまが、懐かしい日本の中国料理を召し上がっていただける店として、また、外国のお客さまにも好評を得、皆様に大変親しまれています。ちなみに、東京駅には、昭和28年7月に、晴海客船ターミナルには平成3年と7年に出店していて、空と陸と海の玄関口を飾っています。

49 ニユートーキヨー商事設立。庄屋チェーン展開始まる
 (株)ニユー・トーキヨーの全額出資により、昭和54年11月21日、ニユートーキヨー商事(株)を設立。ここで初めて、串焼きの「庄屋チェーン」の多店舗展開が始まるのです。より、広範な顧客層の開拓を目指しての挑戦でした。晴れの第1号店は、高田馬場店です。ニユー・トーキヨーが培ってきたノウハウをここでも生かし、大いに繁盛する店となりました。

50 盲導犬を受け入れ、点字メニューを用意
 東京盲導犬協会理事長の塩谷賢一さんが昭和57年、第16回吉川英治文化賞を受賞した折、その祝賀パーティーをニユー・トーキヨーで開きました。この時、集まったのは36人と36頭。というのも、お客さまは皆様、盲導犬を同伴しているからです。会場探しに困っていた塩谷さんから相談を受け、本店9階の中国料理「ろん」に大集合していただきました。その後、盲導犬育成の団体、アイメイトの記念大会も当店で開かせていただきました。これを機に、平成2年には点字メニューを用意することになりました。

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51 数々の話題を作り上げた旧ビヤステーション恵比寿
 東京・サッポロビール恵比寿工場内に大型店舗のビヤステーション恵比寿がオープン。昭和60年3月30日のオープン以来、平成元年10月31日の閉店まで、ここでは数々の記録と話題が飛び出しました。最後の夏、平成元年の7月22日の1日だけで、この季節最高の3500リットルを消費。大瓶に換算すると約5000本です。
 また、関東一の集客数1500席を誇るビヤステーション恵比寿。昭和63年には、1日4700名の来客数を記録しました。

52 業界初の生ビール注ぎコンテストを実施
 業界で初めて生ビール注ぎコンテストを行ったのもニユー・トーキヨーでした。注ぎ方は、「泡切り3年、注ぎ8年」と言われます。平成元年5月23日、ビヤステーション恵比寿に集合したプロの注ぎ手たちは、社内でも選りすぐりの20名。審査するのは、名人・達人との異名を持つ田中・八木両カウンターマン。ビールの味に一家言を持つサッポロビールの担当者があたりました。また、プロの「うまさに迫る一瞬の至芸」を取材しようとコンテスト当日は多くの取材陣が集まりました。

53 本社ビルを大改装し、時代の流れに合わせる
 東京・数寄屋橋の本社ビルを大改装したのは、平成元年3月のこと。ビル内にある本社オフィスを移転、また同ビル内の4店舗を拡張、業態変更しました。これは、非営業面積を営業化し、新しい時代に向けて同社の「顔」を整備化していこうということからでした。というのも、プランタン銀座やマリオン、シャンテ日比谷などの新設によって起きた新しい人の流れに対応していこうとしたからです。時代が変われば、ニユー・トーキヨーも変わる。常に時代とともに、時代の先を読み、活動し続けているのです。

54 団体予約の電話殺到で予約センターを設立
 北は北海道から西は沖縄まで、日本全国を網羅するニユー・トーキヨー。国内旅行ブームのあおりを受けてか、毎年シーズンには観光客が急増する北海道。当地のサッポロビール園では、予約の電話やファックスが殺到し、パンク状態。そこで、事務所の一室を改造して、予約センターを設立。ヘッドフォンで対応できる電話を設置し、6人の女性スタッフが常に待機し、予約の電話を受け付けることになりました。同センターには、1日約200件の問い合わせがあるといい、営業の円滑化を図りました。

55 年末のビックプレゼント!トクトクギフト券の販売開始
 バブルが崩壊し、景気停滞の平成5年、厳しい状況の中で迎える年末年始を乗り切ろうと、同年10月25日から「トクトクギフト券」の販売を開始しました。常連のお客さまに感謝を込めて、年末年始を心おきなく楽しめるサービスとして実施した企画です。忘年会、新年会はもちろんクリスマスやバレンタインなど様々なイベントに利用できるギフト券は、好評を得ることができ、ニユー・トーキヨーの対象店では大いに売上に貢献しました。

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56 ケータリング事業部がますます充実
 ケータリング事業部の運営が相次ぐ出店にともない、軌道に乗ってきました。メニューの統一や食材をはじめ、資材の流れを共有化できないかと模索しながら進めてきた事業です。平成4年6月7日には、宇都宮イーストウッド・カントリークラブの食堂運営を受諾、平成5年10月9日、東京競馬場店がオープン。商品開発プロジェクトにより、社員食堂メニューを拡充し、好評を得、平成9年9月24日には、佐野クラシックゴルフ倶楽部店をオープンさせる運びとなりました。(平成10年1月1日付コントラクト事業部に変更)

57 阪神・淡路大震災にも負けず、営業を開始
 平成7年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。日本全国に店舗を持つニユー・トーキヨーも被害を受けました。しかし、阪神地区の社員は全員無事、着々と再開への準備を整えることが出来、ガスがない中の限定メニューなどの時期もありましたが、多くの方々に喜んでいただくことができました。

58 大ビヤホールのビヤステーションが続々登場
 ニユー・トーキヨーはあらゆる角度から外食産業を支えてきました。ですが、基本に還るとビヤホール。大型店舗、ビヤステーションが続々誕生しました。平成6年、東京・恵比寿ガーデンプレイス内にある、ヨーロピアンテイストたっぷりの「ビヤステーション恵比寿」。平成8年には7月に横浜・JR桜木町駅前に登場した「ビヤステーションYOKOHAMA」。8月に東京・JR両国駅の旧駅舎を利用した「ビヤステーション両国」。いずれもテーマ性をもった大規模なビヤホールの出現となりました。

59 創業60周年記念ビール「プレミアムデゥンケル」登場
 平成9年6月9日に創業60周年を迎えたニユー・トーキヨー。当社の歴史はそのまま、日本のビヤホール・ビヤガーデンの歴史につながる一面を持っています。「生ビールといえば、ニユー・トーキヨー」のイメージも大変根強く浸透しています。60周年を迎えた平成9年、記念イベントとして、プレミアムデゥンケルの販売を開始して、夏のビール商戦に弾みをつけました。創業以来、生ビールの提供にこだわり続けてきた当社が自信をもって、世に送り出した生ビールの逸品は、お客さまに大変喜ばれています。

60 異文化に触れ、学ぶ機会を与える海外研修派遣を実施
 60周年記念事業の一環として、海外研修派遣を実施しました。QSCの向上、社員の知識・技術力のレベルアップを目的に行われた研修です。社員全員を対象に、派遣希望者を公募。派遣者の選出は論文発表によって行われ、多くの意欲のこもった作品が寄せられました。研修地は、目的別にフランス・イタリア、シンガポール、アメリカ・ニューヨーク・ロサンゼルス・ハワイで、10月から12月にかけて、順次実施されました。異文化に接し、気持ちを新たにした皆さんがこれからのニユー・トーキヨーを切り開いてくれることでしょう。

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61. ノンアルコール業態への挑戦
 創業時より一貫してビールにこだわり続けたニユートーキヨーグループも新たなページに踏み入れるべく、昭和63年7月のクロワッサンとコーヒー「川崎三日月堂店」を皮切りに、英国紅茶ブランド「ASHBYS OF LONDON 赤坂店」などなど、ノンアルコール業態へと挑戦しました。「なんでいまさら」とお思いでしょうが、ニユートーキヨーグループでは「はじめにお客様ありき」が基本精神、“お客様に喜ばれる”ためになんにでも挑戦していく姿勢は創業時から変わらないのです。

62. 有名画家による絵皿、お宝殿堂入り
 テレビ東京の人気番組「開運なんでも鑑定団」(平成11年3月9日放送)で、昭和35年から49年までの15年間続けた「オールニユートーキヨー・ビール祭」でお客さまに配った絵皿の原画を鑑定いたしました。鑑定額は、おどろきの5千5百万円、見事殿堂入りを果たしました。
昭和35年というと、今から47年前のことで戦後の混乱期から成長期に移行する時代でもありました。当時の池田内閣が所得倍増計画を打ち出したのもこの年でした。第1回のビール祭の絵皿を彩った画家は棟方志功画伯でした。当時の店舗15店程に対し、絵皿の制作枚数は25万枚という大量にもかかわらず、ご来店のお客さまにもれなく差し上げたため途中で絵皿が足りなくなり、交換券をお渡しして後日絵皿を差し上げる事態になったそうです。

63. 新ブランドぞくぞく誕生
 平成10年を過ぎたころからお客様のニーズも多様となり、コンセプトを大きく打ち出した飲食店が急増しました。ニユートーキヨーでも、今までのビールを中心とした店舗に加え、「ななは」「VINO VITA」「あっぱれ家」「五香路」「彩箸」などなど、過去に捉われない全く新しいブランドを立ち上げ、新たなお客様の支持を得ていきました。和洋中問わずに店舗展開ができるのも長年培ってきた歴史と確かな技術があるからだと言えます。

64. 横浜赤レンガ倉庫への出店
 ニユートーキヨーが「挑戦」していくという姿勢は、明治の歴史的建築遺産として文化的価値を有する横浜赤レンガ倉庫への出店もそうです。
明治44年、時代の精神を反映して誕生した赤レンガ倉庫。この歴史的建造物を未来へと発展させるべく、ニユートーキヨーグループでも業態構想20年、ずっと大切にしてきた宝物をだすように平成14年4月赤レンガ倉庫内に「BEER NEXT」をオープンしました。赤レンガ倉庫の歴史と横浜の文化、景観にマッチしたビールをテーマとしたダイニングレストランは、次世代型ビヤホールの呼び声も高く、多くのお客様に支持されています。

65. 限定オリジナル生ビールの販売
 近年の焼酎ブームもさることながら、ビヤホールでスタートしたニユーートーキヨーは、もう一度「ビールの美味しさ」「ビールの楽しさ」を体感していただきたいという願いのもと、平成17年から限定オリジナル生ビールの販売へと踏み切ります。現在でも、ケルシュ、デュンケルなど普段ほとんど飲むことのできない生ビールを年2回一番美味しい状態で提供しています。お客さまの中には、毎年これを楽しみされている方も多数いらっしゃると聞いています。

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66. お客様自身で注文できる「セルフオーダー端末」導入
昭和62年に導入したように、以前よりニユートーキヨーでは、オペレーションシステムの開発にも力を注いできました。縁の下からサービスを支えることは、どんどん多様化する飲食店において、必ずやお客様に喜ばれるものと信じて・・・
今も昔も変わらぬ想いで新たに着手したオペレーションシステム開発プロジェクトは、約3年の歳月をかけて、平成18年6月「セルフオーダー端末」という形となりました。お客様自身が、ペンを使って、メニューをタッチするだけで、注文ができるという画期的なシステムは、混雑時のイライラを大幅に軽減させることになりました。

67. サッポロビール園リニューアル
 現在では、道内にとどまらず、全国的にもすっかり有名となったサッポロビール園。平成17年11月「ビール一大テーマパーク ビール園」から「街づくりのためのビール園」へと大きくリニューアルしました。園内は、ビールを中心としたいくつもの店舗や博物館に分かれ、様々なコンセプトを持たせてありますが、40年の営業で築き上げたお客様との信頼関係が「街づくりのためのビール園」のメインコンセプトとなったことは言うまでもありません。

68. 人気カレーブランド「TokyoRoux」獲得
 61話でのノンアルコール業態の挑戦は、平成19年大きな成果となって表れます。この年6月「Soup Stock Tokyo」などを展開する潟Xマイルズの人気カレーブランド「Tokyo Roux」の買収へと踏み切りました。このブランド獲得により、今までにない小規模立地への出店が可能となったほか、お客様ニーズをより明確に把握することでき、ますますお客様に喜んでいただけると考えています。立地の大小を問わずに出店ができることは、これからのニユートーキヨーグループには大きな強みとなりました。

69. 70周年を迎えて
 2000年にはいると、飲食業界も大きく変わり、さまざまな新興店舗の出店が目立ちました。独創的なメニュー、デザイン性の強い空間、個性あるサービスなどなど・・さまざまな形で消費者を楽しませてきました。その反面、BSE、鳥インフルエンザ・・・・必ずしも明るい話題だけでなかったと思います。ニユートーキヨーの70年という長い歴史の裏づけには、創業時から変わらぬ経営理念「ニユートーキヨー・グループは、都市生活者に対して飲食を通じて楽しさと憩いを提供する事により、人々のより良い生き方に貢献することを目指します。」があり、地道に「安心・安全、そして楽しさ」を追求した結果だと考えています。

70. 未来に向けて
 おかげさまで、70周年も無事終えようとしています。70周年そして71周年と迎えていけるのもひとえに皆様方のご支援、ご愛顧の賜と改めて感謝申し上げます。
ニユートーキヨーでは、本年も元気に全国で店舗を営業しています。これからも決して時代に流される事無く、たゆまぬ努力を続けていきますので、変わらぬご支援ご愛顧を賜りますよう、そして皆様と共により良い生き方を歩んでいけるよう、今後ともよろしくお願い申し上げます。

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